■ 夢テーブル委員会2006年6月例会
6月10日(土) 10:00~18:00 参加者 夢テーブル委員 三輪 三輪 渡邊 米田 中尾 一般 松井 永井 西垣 行政 佐々木 船谷 見学場所 豊岡~竹野~香住~瀬戸~城崎 AM 建徳会館、神武山配水場、円山川橋梁、森本中学校。 PM ○○邸、細田邸、竹野川橋梁、北前船のそばにある道路の碑文、浜須井の隧道 小さな隧道、安木のレンガ塀、瀬戸の台場、港橋、導流提、二見水源地、JR橋台跡 ------------------------------------------------------------------- 本日の面々 ■10:00 豊岡総合庁舎集合 今回は委員会より今日の資料、てっちゃんマニアのNサンから鉄道の資料、土木関係のSさんから道路の資料をいただく。皆が資料を持ち寄るのがすごい。 最初は建徳会館 ■ 建徳会館(豊岡尋常中学校本館 明治29年)県下で2番目に古い中学校 詳しい説明は「但馬の近代化遺産 建徳会館」を参照 ▼ 全景 ▼和魂の碑 ▼旧豊岡中学校校章 ▼旧豊岡高等女学校校章 ■ 神武山配水場(大正11年)中江種造氏が工費33万円拠出してできた。 ▼ 全景 ▼ 周囲の塀はレンガで作られていた。中江種造氏のレンガ工場で作られたレンガだろうか? ■ 円山川橋梁(タンゴ鉄道) ■ 森本中学校校舎(昭和28年) 現存する木造校舎で現役で使われているのは森本中と八鹿高校大屋分校(昭和32年)だけである。 ■ ○○邸 ■ 細田邸(庭園が豊岡市指定文化財) ▼ 全景 ▼ 手動式の水中銃が玄関先に掛けてあった。 ▼ 市指定文化財の庭 この庭をみながらお茶をいただいた。おいしかったです。 ▼船の石 池の水が少ないときは中の石が船のように浮き沈みする。 ■ 竹野轟の郵便局(前身は何の建物だったのだろうか?) ■ 竹野川橋梁 詳しい説明は「但馬の近代化遺産 ラチス橋」を参照してください。 ▼ 日本で3つしかないラチス桁の橋梁 ▼ 話題は上部のラチスより下部に残っている松杭のほうの話になる。 ▼ 結論は橋脚の補強工事で水をせき止めた松杭が露出して残っている。という結論に達した。 ■ 竹野海岸の石碑について ▼説明するSさん。 昔は自衛隊に頼んで道路を作っていただいた。昭和29年から平成4年度までに39箇所でおこなわれた。但馬海岸道路は昭和39年度から40年度。第二但馬海岸道路は昭和45年度から昭和47年までおこなわれた。この道路のおかげで陸の孤島といわれた地区の孤立化を解消するなど重要な役割を果たしている。またこの道路をたたえる碑が平成13年に除幕されたがことも意味が大きい。現在は高速化の道路もすすんでいるが、ゆっくりと走れる道路のPRもやっている。 (あまりにも簡単です。すみませんSさん) ▼その石碑 ▼説明文(写真をクリックすると大きくなります) ■ 浜須井の隧道 JRの下の道路。幅4.64m高さ3.28m 大きな隧道だが幌のトラックは幌が当たって通過できない。宅急便の人は歩いて荷物を運ぶ。見かねて車を貸してあげたこともあると地元の人は言っていた。早く直してほしいとも言っていた。 ▼ 全景 ▼ アーチのレンガと下部にある石 キーストーン(要石)だろうか?。いやいや台座か? ■ 名無き隧道 浜須井から安木までの間にある小さな隧道 幅1.2m 高さ2.2m。夏場は草で存在すらわからない。 ▼ 北側入口 小さな隧道だと思ってみると ▼ 出口は高さがあった。ようは土砂が堆積して入口側は埋まって低くなっている。 ▼ これも要石なのだろうか?小さくてもちゃんとあるのが面白い ■ 安木地区のレンガ塀 安木地区にはレンガ塀の家が数件ある。これは山陰線の工事(明治43年ごろ)で浜に陸揚げされたレンガの残りで造ったといわれている。 ▼ ○○邸 昔は北前船で富を得た大きな豪邸。いたる所にケヤキが使用してある。 母屋は江戸期、新しい部分は大正につくられた。日本各地の材料を使用してある。 ▼ 玄関左右にある大黒柱と小黒柱 共に尺(30cm) ▼ 庭を見せていただく ▼ ご主人が説明してくださった。 ▼ レンガの刻印 ▼ もう一軒 別の家のレンガ塀 異国情緒たっぷりの不思議な世界 ▼ 村中のレンガ塀 ここで16:00 時間がないと引き返す。 ■ 次は瀬戸の台場をさがす。といってもわからないのでそれらしいところで見たということにする。 ▼ たぶんこんながけ地にあったのだろう。 ■ 瀬戸の港橋 新しい橋と古い橋が二つある。 ▼ 港橋 昭和3年架設 ▼ なぜか中央部だけ幅員が狭くなっている なんでだ?後からつくったのか?などといいながら考えると、さすが土木のSさん。逆梁といいだした。あっと・・なるほど。中央の手すりは高覧ではなく梁なのである。 ▼ 中央の手すりは実は梁なのである。下を船が通るため後から造り替えた。中央部の道路下には梁がないことがわかる。 ▼ 近くの公民館にできた当時の写真があった。できた当初は同じ形状だということがわかる。 ■ 導流提 円山川の水の流れを海に導くもの 昭和20年代か? 50m間隔にポールが立っている。昔は瀬戸から導流提まで(約300mぐらい)泳いでわたったと地元の人はいっておられた。このあたりの河口際は台風23号の時にはつからなかったらしい。むしろ上流部のほうがつかった。なぜなら出口は海の波や風でせき止められ川の水は逆流して水の一番多く溜るのは沖ではなく沖から離れた場所ということも教えられた。 ▼ 導流提 ▼ 階段石とだんご石 石を階段状に加工して見張りにつかわれたらしい。 だんご石は船のロープをかけるとために造られた。 ■ 最後の見学場所 二見の水源地 二見(城崎)から朝見た神武山の配水場まで水が導かれ豊岡市民の上水として使われている。 と簡単に書いたが大正10年には施設ができたのだからすごい。なんといってもその距離は数キロもあり自然の力では無理。神武山配水場は山の中腹にあり受水井からポンプを使って揚水し配水場全町に給水。その容量50万キロリットルで人口15000人の給水量の8時間分を貯水することができた。 ▼ 二見水源地 ▼ 吐水口上部には石額がある。 ▼ 橋の上にあった説明文(写真をクリックすると大きくなります) ■二見の橋台跡 なぜか橋台跡。場所が玄武洞駅近くなので昔玄武洞駅から渡し舟で玄武洞を見学に行ったころにぎわっていたため複線だったのだろう。 ここで18:00 最後までごくろうさまでした。いろいろと勉強になった一日でした。 次回は7月8日(土)浜坂方面にゆきます。
by venex5
| 2006-07-20 15:46
| ■06年6月 豊岡竹野香住城崎
|
カテゴリ
全体 ■06年12月 八鹿・養父・出石 ■06年11月 関宮~村岡 ■06年10月 温泉美方村岡 ■06年9月 大屋町 ■06年8月 養父・和田山・梁瀬 ■06年7月 香住・浜坂 ■06年6月 豊岡竹野香住城崎 ■06年5月 八鹿町 ■06年4月 生野町 ■06年3月 日高・出石・但東 ■06年2月 フォーラム復興建築 ■06年1月 会議 豊岡にて ■05年12月 和田山・朝来 ■05年11月 豊岡復興建築 ■05年10月 日高・村岡・温泉 ■05年9月 大屋町 ■05年8月 城崎竹野香住浜坂 未分類 最新のトラックバック
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
ファン申請 |
||